Scratchの思想とプログラミング教育
青山学院大学客員教授・津田塾大学非常勤講師
阿部和広

「プログラミング学習普及プロジェクト Compter Science for ALL」のアドバイザーのみなさんに、CANVAS理事長石戸奈々子がインタビュー。さまざまな分野のプロフェッショナルであるアドバイザーの方々に、それぞれの「プログラミング教育」についての考え方、視点について伺います。第一弾は、日本におけるScratch普及の第一人者である阿部和広先生へインタビューを行いました。

目次

  • Scratchとは?世界と日本での広がり
  • 1人1台のコンピュータを持つ意味
  • 「LOGO」からはじまる「つくりながら学ぶ」コンピュータ教育
  • すべての年齢のこどもたちへー「dynabook」という構想
  • Scratchのはじまり
  • 阿部先生とプログラミング教育
  • Scratchコミュニティでの学びの形とは
  • 「100ドルパソコン」の真価
  • プログラミングを「ツール」として提供する価値とは
  • これからの必要な「考え方」とは?「自由と責任」・「日常化」のために大切なこと。
       

Scratchとは?世界と日本での広がり

石戸奈々子(以下石戸)

プログラミング言語「Scratch」の、日本での第一人者である阿部先生に、まず、「Scratchとは何か?」を改めてご説明いただきたいのですがいかがでしょうか?

阿部先生(以下阿部)

Scratchは、もともとアメリカのマサチューセッツ工科大学(以下MIT)の中にあるライフロングキンダーガーデンという研究グループでつくられた、こども用のプログラミング環境です。単なる言語ではなく、SNSやコミュニティも合わさった環境です。

言語として何ができるかというと、基本的には画面上にスプライト(キャラクター)を出して、それに対して命令を出して動かすことができます。今までのプログラミング言語だと、キーボードから文字を打たないといけなかったのが、Scratchの場合は「ブロック」と呼ばれるアイコンを並べるだけでプログラムが書けます。

石戸

今どれくらいのこどもたちがScratchを使っているのでしょうか?世界の人数、そして日本の人数について教えていただけますか?

阿部

Scratchはクラウド上のアプリケーションになっているのですが、それを使うにはユーザー登録をする必要があります。その数が世界規模では1300万人、日本だと10万人くらいになります。これが大体1年間で1.8倍ずつの規模で増えているというのが今の状況です。(2016年7月現在)

石戸

その1.8倍ずつ増えているという状況は何年くらい前からでしょうか?

阿部

2013年のオバマ演説ですね。それがすごく大きかったと思います。

石戸

1.8倍ずつ増えているのは日本も同じですか?

阿部

そうです。少し前までは日本の伸びのペースはそれほど大きくなく、でもここ半年くらいで伸びてきていますね。

石戸

ここ半年くらいで、世界レベルと同じくらいの伸び率になってきたのですね。

阿部

ただ、比率でいうとまだ0.8%なので人口比率でみればまだまだ少ないという状況です。

石戸

日本で今まで伸びてこなかった理由は何でしょう?

阿部

仮説でしかないのですが、日本の場合はやはりインターネットやコンピュータに対する忌避感が保護者の方々の中にあり、インターネットにこどもが登録して勝手に何かをすることに対して抵抗があったせいではないか、と考えています。

1人1台のコンピュータを持つ意味

石戸

なるほど。漠然とした不安感がScratchの利用も抑制してきたのですね。

これまで、「新しいテクノロジーとこども」「新しいメディアとこども」ということに関しては、まさに安全・安心の観点から、負の側面に関して注目が集まる傾向にありましたが、今どうしてこれだけ「プログラミング教育」というものが受け入れられようとしているのかと考えると、スマホやタブレットが急速に普及し、1人1台、何らかのデバイスを持ち始めたことで、保護者にとってもこどもたちとコンピュータとの距離が近づいたということがあるのではないかと思うのです。

阿部

そうですね。その一方で、MITでScratchを開発したミッチェル・レズニックさんは、『今のこどもはコンピュータが生まれたときからあり、一般にはデジタルネイティブと言われているが、実際はその「中身」については分かっていないのではないか。』という危機感があると常々おっしゃっています。

こどもも含めた私たち自身が単に消費者になるのではなく、「クリエイターになるための手段としてのScratch」ということをおっしゃられています。


石戸

そうですね。何十億もする大型コンピュータの時代を経て、コンピュータが個人のものになったということは、すべての人がつくり手になれる時代の到来ともいえますよね。

阿部

パーソナルコンピュータには2つの意味があると思うのですね。1つは、個人で所有可能なコンピュータという意味と、もう1つは、個人の能力を拡大するためのコンピュータ。

確かに、個人で所有できるという意味においては、スマホもいれれば1人1台以上あるわけです。でも、本当の意味で能力を拡大できているか?というところに疑問があります。
たとえば、スティーブ・ジョブズのおかげで「知的自転車としてのコンピュータ」 ができたといわれていますが、ジョブズが一番見逃してしまった、というよりも、意図的に外したのが誰でもプログラミングができる仕組みでした。

「Apple II」は、最初プログラムを書かないと使えない機械でした。それがMacになってからは、アプリケーションを使うための、つまり、コンテンツを再生しアプリケーションを実行するためのものになったわけです。

それが、80年代から脈々と続いてきたのですが、今は急激な揺り戻しがきています。あまりにもわからなくなってしまったものに対して、中身を理解しなければこれからはやっていけないのではないか、という考え方に変わって来たのだろうと思います。

石戸

自分の所有するコンピュータの中身を理解することで、本当の意味でコンピュータを使いこなすことができる。1人1人が表現手段を持つことができますね。

阿部

ここで表現といったときに、与えられた既存メディアの上で何かを表現する、たとえば、フォトショップがあるから絵が描けるということも確かに表現なのですが、私の考える表現、あるいはアラン・ケイ さんの考える表現というものは、別の視点から見たものです。

つまり、もしフォトショップ自体をつくれるようになれば、その上で何ができるか。メディア自体をつくる能力、メタメディアをつくれる能力というのが真の表現能力であろうと考えています。アランさんの定義におけるコンピュータリテラシーというものはそこまで含んでいたということですね。

石戸

自ら表現するツールを、ツールとなるメディアをつくってはじめて、テクノロジーを活用した表現者になり得る、ということですね。

阿部

私は美大で教えていたことがあるのですが、美大の学生にたとえば「渦巻きの模様をプログラムで書いてみよう」という課題を出したことがあります。これは、タートルグラフィックス(後述)を知っていれば、そんなに難しいことではありません。ちょっと曲がってちょっと進んで、その進む距離を伸ばしていけば渦巻きになります。それに対して彼らの反応がどうだったかというと、それをやる必要がない、ということでした。

なぜならば、私たちはイラストレーターを使っているからそれは一発で書けるのに、なぜわざわざプログラムしないといけないかが分からないと。

石戸

阿部さんはその時どのように答えたのですか?

阿部

もし、あなたが日本画家だとして、岩絵の具を乳鉢ですらない画家が存在しうるのかって話ですよね。あるいは、彫刻家が彫刻刀を研がない、つまり、道具自体の特性を知って、それ自体を作らないことがあり得るのかという話です。

これは道具の制約が表現できる範囲を決めてしまうということです。講義の中でプログラミングに取り組むと、そのような疑問がでてくるようになってしまっていることに危機感を覚えました。

「LOGO」からはじまる「つくりながら学ぶ」コンピュータ教育

石戸

コンピュータを教育に活用するという動きはこれまでもありました。しかし、その利用の仕方は教示主義的な使い方が多かった中で、そこに一石を投じたのがScratchの原点となるLOGO言語ですね。

阿部

コンピュータの教育利用というのは、2通りの道を辿ってきました。
かつてバラス・スキナーさんが説いた行動主義から来たオペラント条件付けが教育に使えるという考え方です。つまり、ネズミを箱の中に入れておいてボタンを押すと餌が出てくることを学習させる。それをそのまま教育にも使おうということで、ティーチングマシンをつくった。

それをコンピュータに置き換えたものがいわゆるCAIです。それに対する、非常に強い批判として生まれたのがシーモア・パパートさんのつくったLOGO言語であったということですね。

つまり、こどもたちが自分でタートル、カメを動かすことによって絵を描いて、その描く過程を通して幾何的な性質、数学的な性質を学ぶ事を狙ったものです(タートルグラフィックスとマイクロワールド)。

石戸

「コンピュータにこどもをプログラムさせたいのか、こどもにプログラムさせたいのか」という有名な言葉がありますが、その背景として、教示主義的なコンピュータの使われ方というのが教育現場で一定以上浸透したわけですよね。それに対しての疑問の考え方から生まれたのがパパートさんの構築主義であり、そこから生まれたのがLOGO。

LOGO foundation

阿部

はい。もちろんそこにいきつく過程にはもっと様々なことがあったのですが、長くなるのでやめておきましょう(笑)

石戸

パパートさんは構築主義、ものをつくりながら自分の中で概念を構築していくという考え方を提唱されてきましたが、そこからどう「こどもとプログラミング」にいきついたのでしょうか?

阿部

これは、パパートさんの体験、幼少時の原体験がベースになっています。[8]

パパートさんは、歯車をおもちゃにして過ごしたそうです。そしてその歯車を回している間に足し算とか掛け算とか割り算とか、さらに微分積分の概念を自分で発見したと。それはパパートさんが賢かったこともあると思うのですが、普通の人だったら歯車教材キットをつくると思います。でも、パパートさんがもっと賢いなと思うのは、そうはしなかったところです。

石戸

うんうん。確かに。

阿部

ただ、すべての子が歯車に自分のような親しみを感じるとは思わなかったのですね。非常に正しい。慧眼だと思います。 では、万人のための歯車というのはいったい何だろうと考えたときに、当時丁度出てきていたコンピュータだと思ったわけです。コンピュータというのは本質的な性質に、どんなものでもモデル化して、どんなものでもシミュレートできるという性質があります。 であるならば、すべての子に対して自分の歯車を見つけられるツールになるのではないかという風に考えたわけです。そこでつくられたのがLOGO言語。すなわち、プログラミングというのはあくまでもそれを実現するための、ものをつくるための手段であって、言語の習得というのはその時点から目的ではなかったということですね。

石戸

歯車に代わる汎用的な学びのツールとしてのプログラミングというのがそこで出てきたのですね。

阿部

おっしゃる通りです。もちろんモンテッソーリの教具であるとか、フレーベルの恩物とかいろいろありますが、それもひとつの形として決まっちゃっているわけです。それ自体を自由に変えられるのが、今までとの違いです。コンピュータであればどんなものでもつくり得る、そこですね。

石戸

うんうん。先ほどのメディアでなくメタメディアにも通じる、メタ教材、メタ玩具とも言えるものですね。

阿部

アラン・ケイさんは、パパートさんのLOGOの実践を見て、目を見開かされたわけです。それで、現在私たちの知っている歴史が始まっていくのです。

石戸

プログラミング教育の目的を考えたとき、いわゆる、それはプログラマー育成のためなのか?という議論もありますが、Scratchが生まれるまでの思想を辿ってみると、そもそも育成という言葉は考えたこともなく、こどもたちの主体的な学習をサポートする役割としてもともと登場したものがScratchというわけですよね。

阿部

はい、そうです。

石戸

歯車と比べてコンピュータは反応がすぐにあるため、こどもたちが試行錯誤をしながら考えることができるという学習にとってのメリットもありますよね。

阿部

おっしゃる通りです。
たとえば、これはアランさんの言葉ですが、
ピアノの鍵盤を押して音が出るまでに何秒もかかるような物はあり得ないですよね。コンピュータの場合でも即反応が返る。ここがすごく重要です。逆に、人間だったらしびれを切らしてしまうくらい、使う人がじっくり考えていて何もしていなかったとしても、コンピュータだったらいくらでも待ってくれる。そういう特徴もすごく重要だと思います。

石戸

パーソナルコンピュータの父ともいわれるアラン・ケイさんのお名前がでましたが、アランさんが考えていたいわゆるパーソナルコンピュータについての考え方と、パパートさんの考える学習についての考えがシンクロしてdynabookが生まれるわけですね。

すべての年齢のこどもたちへー「dynabook」という構想

阿部

アランさんの考えに決定的な影響を与えたのはLOGOとの出会いです。確かにLOGO言語は素晴らしいですが、それがいつでもどこでも使えるわけではありません。最初のLOGOは大きなコンピュータが必要でしたし、パソコンのモニターにカメの絵が出てきて動くというのは比較的後の話です。最初は現実のロボットを動かしていた。非常に限られた環境でしか動かなかったのです。
しかし、当時の技術を分析すれば、将来の進歩の方向性を予想できる。それを前提として考えたときに、未来にはどういうものが存在しているべきかを考えたのがdynabookです。

それは12×8インチの板状のものに平面ディスプレイがついていて、そこには紙と見間違うようなグラフィックスが表示されており、無線のネットワークで相互につながっています。そして、その上でタートルグラフィクスに限らず、新しいメディアをつくることができる(自由にプログラムができる)というもの。それをアランさんは考えた。

石戸

LOGOというこどもたちの新たな学習の方法が出てきたけれども、その環境をすべてのこどもたちに提供するには、すべてのこどもたちにコンピュータを渡す必要があるという考えからdynabookという構想が生まれたといっても過言ではないのですね。

阿部

はい、そのために、未来にはこういうものができるというビジョンを提示したのがdynabookでした。大事なのは、アランさんはすべての年齢のこどもたちのためにdynabookを考えたということです。「すべての年齢のこどもたち」(Children of all ages)とは、つまり、こどもだけではなく、大人もこどもだと言っているわけです。探求心を持って新しいものをつくり出し、試行錯誤する人を育てたいということです。それは、年齢とは関係がありません。

石戸

それは、Scratchが生まれたプロジェクト名「Lifelong Kindergarten」の考え方につながりますね。

阿部

非常に近しいものだと思います。

石戸

すべての人たちが試行錯誤しながら新しいものを構築する、そして、さらに生涯にわたって学び続けることができる。そのためのツールとしてコンピュータが存在する、ということですね。

阿部

「遊び」と「学び」には本来、違いがないのだということです。

Scratchのはじまり

石戸

レズニックさんについては、日本だとまずレゴ・マインドストームの生みの親の一人と説明するのが分かりやすいかと思います。

阿部

レズニックさんはもともとテクニカルライターをされていました。そのあと、メディアラボに来てLOGOを研究します。そのときにやられていたプロジェクトとしてはプログラマブル・ブリックス、レゴとプログラム、LEGO/LOGOに続くシステムです[yd13] 。それを発展させたものとしてレゴ・マインドストームができていきます。さっき申し上げたLOGOでは最初はロボットを動かしていました。それがバーチャルに来て、それをもう一回リアルに戻そうということですね。

レゴで自由にものを組み立てられるとすれば、それをプログラムして動かせられるようにすればもっと面白いことができるだろうということでつくられたのがレゴ・マインドストームです。

あともうひとつ研究されていたのがStarLogoです。StarLogoは、LOGOのタートル、カメさんが1匹2匹ではなく、何千とか何万匹います。それらのカメが同時にワッと動いたときにいったい何が起こるのか、という複雑系のシミュレーションをするためのマルチエージェントシミュレーターです。

http://web.mit.edu/mitstep/starlogo/tutorial/tutorial.html

たとえば、そのカメを車に見立て、交通渋滞が発生していく様子や、あるいは、カメを森の中の木に見立てると森林火災がどう広がっていくかという、そういう風な研究をされていたのですね。そういう知見を基につくられたのがScratchです。

石戸

レズニック教授のチームの面白いところは、Scratchをつくるだけではなく、実際にこどもたちと一緒にワークショップで実践をし、その普及も担ってきたことかと思います。

阿部

Scratchの黎明期の頃のお話をすると、コンピュータクラブハウスという活動がありました。ボストンの経済的に厳しい地域のこどもたちにコンピュータやいろいろなものをつくれるハブをつくろう、今でいうFabLabのようなものを用意すると、いったいどういったことをできるのか?という実験がされていました。初期のScratchもそこで試されました。

そのフィードバックを受けて、こどもたちの興味関心と実際に学んでほしいことを上手く結びつけてあげれば、どんな子でも面白いものをつくるようになって、自発的に学習するようになることが分かりました。そこが大きなポイントだと思いますね。

石戸

初期の頃は、コンピュータクラブハウスはインテルさんはじめIT企業がかなりサポートする中で地域の活動として運営されていたわけですが、学校現場の中でも使われていましたか?

阿部

どこまで実際に使われたかというとなかなか難しい話ですよ。2013年以前も、数十万のユーザー数はいたけれども、アメリカは州ごとにも違いますし、学校ごとでも違えばチャータースクールもあると、みんな違うのですね。だからあるところではScratchをたくさん使っているかもしれないけれども、あるところでは全然使っていないということもあるので、一概には言えないと思います。Scratchの国際会議は2008年から始まっています。ScratchEdでは、世界各地の事例がまとめられています。

阿部先生とプログラミング教育

石戸

ちなみに、阿部さんが初めてプログラミングのワークショップをされたときは、2002年でしたよね。日本のこどもたちの反応に関してどういう印象を持ちましたか?

阿部

私はそれまではプログラマーで、こどもの教育とは全く関係がないことをしていました。ただ、Smalltalkをしていたので、かなり特殊な人間だったというのは自覚しているのですが。

あるとき、アランさんの奥さん、ボニー・マックバードさんが今度京都でドキュメンタリーフィルムを撮るからそれの手伝いをしてほしいと連絡が来た。それに使うSqueak Etoysの日本語版がないからつくってくれと。1か月くらいでなんとかしてねと。そして泣きながらつくってCAMP(CSK大川センター)でのワークショップに間に合わせました。ファシリテーターは今は東工大にいらっしゃる森秀樹先生です。でも、はじめはすごく懐疑的でした。こどもたちにこんなものを渡してもたいしたものはできないだろうと。

石戸

阿部さん自身がはじめその可能性を信じられなかった?

阿部

そう。信じられなかった。当時の私は今プログラミング教育に対して懐疑的な人と同じです。プロであれば、プログラムはいかに複雑でいかに大変なことかわかっている。それをこどもたちに渡しても無理だと思っていました。ただ、私が小さかったころもBASICとかはやっていたので、一部にはできる子もいるだろうとは思っていましたが。

ただ、実際にやってみたら、2時間か3時間くらいのワークショップで、もう驚くべき、想像をはるかに超えるものが出来てきた。

石戸

それでハッとするものがあったと。当時はパパートさんとかの思想を信じていたわけではなかったのですね。

阿部

はい。なぜかというと、Smalltalkを当時日本でやっていた連中は、私を含めて、別にこどもの教育はどうでもよかったわけですよ。Smalltalkの美しさや可能性に惹かれてがんばっていただけであって、アランさんが何を考えてそれをつくっていたかはもうどうでもよかったんですよね。

石戸

(笑)

阿部

2001年にアランさんが日本に来て、日本のプレイヤーと話がしたいといって、初めて彼のこどもについての考えを聞いたとき、最初かなり面食らうものがありました。実際にその現場を見るのがその1年後の2002年。そこでかなり衝撃のある経験をしたことになります。

石戸

なるほど。2002年はちょうどCANVASを設立した年でもあります。

阿部

私は2002年ですが、1960年代から取り組んでいる方々もいます。当然そこで培われてきたものがあるわけです。簡単にできるとか、方法論不要とか、経験不問とか言われるのはちょっと違うのかなと。

Scratchコミュニティでの学びの形とは

石戸

Scratchを初めて見た方の印象は様々で、パッとみると新しい動くお絵かきソフトだと思う人もいるでしょうし、もちろん学習に使えると気がつく人もいるかもしれない。実際にやってみないと見えない実態としては、Scratchの価値は、そのコミュニティにあります。

阿部

Scratchは、その半分は言語とその環境でできていますが、もう半分はSNSです。そこは欠かせないところだと思います。

石戸

そうですよね。そこの価値って、学習環境を設計するという点においても非常に高い価値や効果があったのではないかと思います。その学習コミュニティ形成に大きく寄与しているのが、作品を世界中で「共有」するという機能ですね。

阿部

はい。

レズニックさんの研究の中で、クリエイティブ・ラーニングスパイラルという考えがあります。たとえば積み木を出して、こどもたちを呼び集めると何が起こるか。もちろん何かをつくり始めるのですが、そのまえに「Imagine」、つまり想像をして何をつくるかを考える。そして「Create」、実際に「つくる」。次に当然それで遊ぶ、「Play」があり、そしたらほかのこどもと一緒に遊ぶ「Share」、共有が起こります。さらに、振り返り「Reflect」を通して新しい発想が生まれる。積み木の例でいうと、遊びと共有、振り返りを通して、ある子がつくった塔と門を橋でつなごうという新しい創造につながる繰り返しが起こるということです。

そういうことをプログラミングでやろうと思ったとき、もちろんリアルな教室であれば周りに友達がいます。それと同じように、バーチャルな環境においても、「積み木」を置いた環境をつくりましょうということです。それがScratchのSNSの側面で、Imagine、Programming、Shareというスローガンを基につくられた環境です。

石戸

CANVASはワークショップをいつもいろいろな場所で行っているのですが、そのリアルの世界で驚くのはこどもたちの勝手に協働していく力です。たとえば、深沢アート研究所さんと一万個の紙コップで空間をつくるというワークショップを行っています。そのときにも、はじめは個人で紙コップを積み重ねてつくっているのですが、気が付くとみんなが自分たちの作品を勝手につなげていって、一つの大きなオブジェをつくり、みんなで空間をつくっています。

ネットやデジタルのいいところは、時間と空間を超えてそれができること。それを最大限生かしたのがScratchのコミュニティなのではないかと思います。そのコミュニティの中で、こどもたちは実際にどういうコラボレーションをしていますか?

阿部

まず誰かが作品をつくると、それに対して「好き!」がつきます。さらに「お気に入り」がつく、コメントがつく。ここまでは、FacebookやYouTubeと同じですが、Scratchの面白いところは「リミックス」機能があることです。これで、ある子がつくったものをもとに改良することができます。

これにより、いわゆる巨人の肩に乗る体験を小さいときからすることができます。自分一人の力では、大きな仕事はなかなか難しいけれども、先人の力を借りれば高いところまで行って遠くを見渡すことができる、という経験をすることはすごく重要だと思いますね。

石戸

協働をすることで可能性が広がる経験は大事ですよね。それが私たちもワークショップという形を通して、協働でつくるという活動をしている理由です。実際、こどもたちのコラボレーションというのはどの程度起きていますか?

阿部

もう日常的に起きています。

掲示板機能もあり、掲示板のトピックスとして典型的なものが「合作しよう」という呼びかけですね。ある子が「こういうRPGをつくりたいから、みんな一緒にやりませんか」と投稿すると、「僕はプログラムができる」、「私は絵を描ける」、「自分は音楽ができる」みたいな感じで集まり、特定の作品だけを共有できる「スタジオ」を使って、だんだんつくられていくということが行われています。

石戸

リミックスというと、現実の世界だと前の作品を壊してしまうことにつながる可能性もあるので避ける場合もありますが、デジタルの良さというのは、もとの作品も残しながら、新たな展開を見られますよね。それは面白いなと思います。

阿部

重要なのは差分ですよ。

石戸

うん。

阿部

「何を変えたか」を必ず書きましょうと。それからあとは、もとになった作品のリファレンスをつけて作者をリスペクトしましょうと。ここが重要ですね。

石戸

その精神は、こどもたちの間できちんと広がっていますか?

阿部

たぶん、Scratchのサイトで共通の価値観が共有されていなければ1300万人のこどもたちは、「蠅の王」(ウィリアム・ゴールディングの小説)のようになって互い攻撃し合うようになると思うのです。そこで、コミュニティガイドラインが用意されています。それはみんなが守るべき大原則で、共通認識として持っています。

石戸

授業やワークショップでも、プログラミングが得意なこどもが授業をするという実践が生まれたり、すでにプログラミングに親しんできた6年生が1年生を教えてあげたりという実践が生まれています。年齢を超えて教え合い・学び合うというのが、理想的な学びだなと思うのですが、そのコミュニティの中でもリミックスにとどまらず、お互いに分からないことを教え合うということが起きているんですよね。

阿部

はい。誰かが書いているプログラムのここが分からないとか、自分はこれをやりたいけれどもどうやったらいいかわからないということを質問コーナーにどんどん載せて、答えられる人が答えるというのが日常的に行われています。

石戸

完全に大人は介入しないコミュニティなのですか?

阿部

なるべく介入しないよう努力している、というのが正しいです。

そうはいってもいろいろなトラブルは起こります。誰かが悪口を言ったとか、喧嘩になるとか。いわゆる炎上に近い状況も起こるのですが、私自身は極力見るだけにして、こどもたちで解決するように仕向けています。でも、どうしようもなくなったときは介入しますし、報告ボタンというのもあって、こどもたち自身がSOSを上げられるようになっています。

石戸

なるほど。

石戸

私たちは2002年からプログラミング教育もやっていますが、同時にリテラシー教育も行っています。さきほどアランさんのリテラシーの定義の話がありましたが、「リテラシー」という言葉は、本来すごく広義なものですよね。利活用できる力から、つくり出す力まで。そして同時に、トラブルに対処する力や情報モラルを育むことも必要ですね。

Scratchコミュニティでは、こどもたちがつくりながらモラルも学んでいる。著作権に関する考えや、ネット上での問題解決方法も学んでいっているのですね。

阿部

おっしゃる通りですね。

私たちはどうしてもリテラシーとか情報モラル教育をやろうとしたときに、「禁止」から入ることが多いと思います。起こり得るトラブルを未然に摘むためには禁止すべき。確かに、これは一定の説得力を持つと思いますが、私は、比較的安全な場所で実際に体験させるべきだと思います。そうすれば、将来起こる様々な問題に準備ができるのではないでしょうか。

石戸

規制って一番簡単な方法ですよね。しかし、こどもたちはもうネットにつながったデジタルデバイスがない時代を生きることはできない。すると規制をするだけだと、ある日突然荒波に放り込まれることになる。むしろ、こどもが小さいうちに、大人が見守ってあげられるうちに、できるだけ体験を積み重ねていかなければ、身につかないですよね。

阿部

そうですね。いろいろな学校を回っていて驚いたのですが、スマートフォンなどの情報モラル教育をするにあたって、学校にスマートフォンを持ち込めないから、紙のスマートフォンで練習をするという話を聞きました。それは一体どのような意味があるのでしょうか。一歩学校を出ればこどもたちは本物のスマートフォンを使っているわけです。学校は現実から乖離している感じがして、それはよろしくないなと思っています。

こどもたちが今Scratchのサイトで体験していることは本当にリアルですよ。いきなり外国の子が来て英語で話しかけられたりするわけです。それって、なかなかないことじゃないですか。

石戸

そうですよね。国際社会、情報化社会をScratchコミュニティの中で体験しているわけですね。

阿部

リアルな国際社会として、たとえば、1300万人の中で、トップのページの「注目のプロジェクト」としてピックアップされるにはどうすればよいのかを考えるのです。

石戸

なるほど、競争も成立しているわけですね。

阿部

競争というか、いかに他の人から認めてもらうかですね。だから、コンテストとかじゃないんです。報酬として豪華景品をもらえるわけでも何でもないのに、自己承認欲求を満たすことがどれだけ大きなモチベーションになるかですね。

石戸

こどものコミュニティの中で承認されているということですよね。教示主義であった「メダルをもらえる」とかではなく、「承認される」というのが最大のモチベーションになる。それを設計できているのがScratchコミュニティだということですね。

阿部

そうだと思います。結果論かもしれませんが、非常にうまく回っている。このスケールにしては、大きなトラブルもなくうまく進んでいると思いますね。

「100ドルパソコン」の真価

石戸

少し話は飛ぶのですが、Smalltalkのときにアランさんがすべてのこどもたちに行き渡らせるためにdynabookが考えられたのと同じように、どのようにすべてのこどもたちに一人一台の情報端末を渡し、学習の機会を提供するのか、ということが課題としてあがりますね。そこへのチャレンジがOLPCにつながっていきます。

阿部

OLPCは、アランさんの考えていたdynabook、パパートさんの「チルドレンズマシーン」を実現するためのプロジェクトだったといってよいと思います。ニコラス・ネグロポンテさん は、これはただのラップトップ配布のためのプロジェクトではなく、それ自体が「学校」になるのだということまでおっしゃっていました。

OLPCが開発したXOというラップトップのキーボードには、歯車のキーがあるのですが、それを押すと実行中のアプリケーションのソースコードがバッと出ます。それを変更したらその瞬間に変わって動く、というところまで考えられていたマシンだった。非常に理想は高かったと思いますね。

石戸

1人1台100ドルのパソコンの「100ドル」の方に注目が集まりがちで、技術的チャレンジと思われがちですが、どちらかというと「教育」に対してアプローチするプロジェクトでしたね。

阿部

完全に教育に対するプロジェクトでした。たとえばOLPCの上では「シュガー」という環境が動いていたのですが、そこにはデスクトップはなく、「アクティビティ」からスタートします。アプリケーションではありません。

たとえば、「海の生き物について調べよう」というアクティビティを始めたとします。そのアクティビティに関心がある子が集まって、活動の内容に応じたプロジェクトの画面が開きます。その中に、参加者の数だけカーソルが出て、分担して検索したり、文字や絵を同時に編集したりできるのです。もちろん、プログラムでシミュレーションしてもかまいません。

裏では「ジャーナル」というアクティビティが常時動いていて、何時何分に何とかさんと何とかさんがこの作業をしましたというのが自動的に履歴として残っていきます。いつ止めてもよく、あとで再開しようと思えばジャーナルの項目をクリックすればその時点から始まる。ジャーナルの管理主体はあくまでもこどもたち自身です。
要はGoogle ドキュメントですよ。しかし、その当時、この話を伝えても周りには全く伝わらなかった。意味が分からないと。なんで保存ボタンがないんですか、というような。

石戸

イメージとしてわかなかったということですね。

阿部

そうです。本当に先駆的だったと思います。

石戸

今、日本で盛り上がっているアクティブラーニングやアダプティブラーニングと言われるものは、実はすでに実装されていたわけですね。

阿部

そうですね。ただ、当時の技術的な限界はあったというのは否めず、理想と現実のギャップがあったことも間違いありません。

石戸

技術的にできなかったこともあったとのお話ですが、こどもたち主体の学びとか、協働の学びとか、つくるながらの学びとか、そういう学びに対する考え方自体は随分と前からあるわけですが、実際に実践しようと思うとコスト的な面でも難しかった。

しかし、技術的な進歩によって、理想とされていたけれども実現できなかった学びが、今こそ実現できるようになっているし、また社会の環境変化もそれを求めている側面もあるかと思いますがどうでしょうか。

阿部

確かに技術の進歩はあるけれども、その進歩をあまり受け入れようとしていないのではないかという懸念があります。

たとえば学校のPC教室とかに行ってみればわかるのですが、児童生徒は管理される存在であるということからスタートしています。そしてそれを実践するための環境がつくられています。生徒の画面を先生がロックしたり、見たり、切り替えたりという機能が PC教室のパソコンに組み込まれています。

先生がそれこそ神様のように自由自在にこどもの行うことを監視して制御できるようなシステムが導入されている。これはパソコンだけではなく、タブレットも同様です。

教育に対してICTを利用する根っこの考え方が変わらない限り、つまりOLPCの思想のレベルで変わらない限り、単に入れました、というだけでは何も変わらないどころか、かえって悪くなるのではないかという危惧を持っています。

石戸

学校の中にコンピュータを入れていくのは、コンピュータを入れること自体が目的なのではなく、コンピュータが入ることによって、今の時代にあった真のこどもたちの学び、それをCANVASでは「主体的な学び、協調的な学び、創造的な学び」と言っていますが、そのような学びをつくるためのツールとして入っていく、というのが目的なわけです。コンピュータ活用の目的を間違えないためにも、学びについての考え方をしっかりと持っていかないといけないですね。

阿部

自由と責任というのは常にセットだと思っています。確かに、こどもたちにインターネットにつないだ端末を渡すことが危険であることは間違いないですよ。ですが、それによって生じる責任もあなたが負うのだ、ということですね。何をやっていいのか、悪いのかというのは別の話だと思います。だから、そこを間違えてはいけないですね。

石戸

自由と責任というと・・・私が過ごした中学校・高校で6年間ずっと言われ続けていた言葉です。

阿部

素晴らしい。

石戸

PEGをスタートする際に、1年間の目標として、Rapberry Piを5000台を配布し、年間で2.5万人のこどもたちにプログラミングで学ぶ環境を提供するという目標を掲げました。そのスタート時のキックオフイベントでも、自由と責任の話をおっしゃっていましたよね。

阿部

はい。PEGのキックオフのイベントで、私がスライドの最後に出したのも「自由と責任」でした。Rapberry Piをこどもたちに渡すのは、むき身のナイフを渡すことと同じです。それでもなお渡していきたい。それはそれで覚悟がいる話ですが、それについては大人が負うべき責任でもあります。

プログラミングを「ツール」として提供する価値とは

石戸

いまだかつて誰も経験したことがないほど変化の激しい時代においては、ライフロングキンダーガーデンのように、こどもも大人も生涯にわたって学び続けることが求められる時代になっていると思います。だからこそ楽しく学ぶというのもまた大事なことかと思います。

プログラミングワークショップに参加をしているこどもたちの表情はいつも活き活きとしていて、主体的というよりも前のめりの姿勢になりますよね。

阿部

こどもは基本的に好奇心の塊なので、なんだかわけのわからないものが目の前に置かれたらそれで遊ぶというのは当たり前のことですよね。誰かがこのボタンを押してみた、誰かがこのブロックで面白いことを見つけた、それがクラス全体に広がっていく、というのが当たり前のように起こります。調べては検証し、検証しては調べていくという自然な流れが形成される場面を、もう何度も見てきました。それならば、これは使わない手はないだろうというのが、私のプログラミングに対する基本的な考えです。

石戸

こどもたちは一つのことに熱中したときに、たくさんのことをそこから吸収していきますよね。何かをつくろうと思うと、様々な知識が必要で、こどもたちは自分のやりたいことを実現するために、必要な知識を調べたり、人に聞いたり、自ら学んでいく姿がワークショップではたくさんみられます。すごく難しい数学の公式を自ら導き出していったり、物理現象を視覚的に理解していったりするこどもたちもいます。今まで教科で学んできたバラバラな知識を統合して活用する総合力が、プログラミングを通じて育まれているのではないかと。

阿部

学習するものに対する意味づけを与えるということは、ずっと行われてきました。割り算について考えるとき、太郎君と花子さんがミカンやリンゴを分け合う文書問題の中だけで考えるだけでなく、「割り算」にこどもたちが関わる意味を与え、考えるということもSqueak Etoysの頃からやってきました。

たとえば、「画面の中の車を操縦するとき、ハンドルをどのくらい切ったら、車がどのくらい曲がるだろう」というお題を考えます。実際にプログラムで試してみて、もし曲がりすぎるようだったら、ハンドルの角度と実際に曲がる角度をギヤで減速する、すなわち割り算を使ったらどうなるだろう、というようなことを行います。それをこども自身がやりたいのなら、真剣に学ぶはずです。
ただし、ここで気を付けないといけないのは、こどもたちの興味関心はみな違っているので、全員がそれをやらないといけないわけではないことです。もしそれを強制すると、目的と手段が逆になってしまいます。

石戸

そうですよね。うんうん。

阿部

Scratchの基本的な思想に、「Low floor, high ceiling, wide wall」というのがあります。敷居は低いが、非常に高いレベルのことまでできる。さらに広い壁、すなわち様々な作品をつくることができるという考えです。

たとえば、Scratchをやっているこどもたちの中には、もうびっくりするような市販のアプリ顔負けの作品をつくる子もいます。ですが、自分で一生懸命に絵を描いて、色を付けて、クリックすると「ニャー」という音が鳴るだけのプログラムをつくった子と、すごい作品をつくった子の間に、価値の差はないのです。ここに気を付けないといけない。

どうしても私たちは「すごい子」にばかり注目してしまいますが、そうではないのです。それぞれの子の興味関心、スキルに合った居場所を提供するということですね。これが、パパートさんの言っていた「万人のための歯車」です。

石戸

多様な学びを与えるようで、多様化という名の画一性みたいなものが生まれがちというか。(笑)

阿部

そうなんです。たとえば、昔「ネコから逃げろ(ネコ逃げ)」というカリキュラムをつくりました。これは、入門用として考案したものです。

石戸

みんなやっていますよね。

阿部

そう。でも、あるところでは、それがゴールになっている。45分×2の授業で、「ネコ逃げ」のゲームができた。はい、そこでおしまい、です(笑)。これは、どうなのかということですね。

石戸

「ネコ逃げ」づくりは、こどもたちが次のステップにいけるためのいろいろなエッセンスが入っていて、次につながる入門編としては最適ですけどね。

阿部

そうなんです。そう思ってつくったのですが、いろんな学校を回って話を聞くと、そこで終わるんですよね。プログラミングに使える時間はわずかしかありません。学校にはいろいろやらないといけないことがありますから。

石戸

本当は、やりたいことがあってその為の入門としてのネコ逃げがあったにもかかわらず、ネコ逃げをすることが目的になると、こどもたちもなんでネコ逃げのゲームをつくらないといけないのとなりますよね。

阿部

そうなんです。もっとひどい例になると、最後にテストを行って、ここの空欄に入るのは何ですかとやる先生もいらっしゃいます。

これから必要な「考え方」とは?
「自由と責任」「日常化」のために大切なこと。

阿部

だから、変えないといけないのは考え方ですよ。放っておくと、今までやっていた方法でやっちゃうんです。一斉授業の形でプログラミングもやればいいだろうという風にやると、先生は意味を見いだせず、こどもたちは苦痛を感じるだけという最悪の形になります。
ですから、日常化したいわけですよ。読み書きそろばんではなく、「読み書きプログラミング」というのは、ある時間だけプログラミングをやりましょう、ではない。いろんな授業や単元があって、「あ、ここにプログラミングが使えるよね」となったときに即使えるような環境を用意したい。そのためには、常に使える状態になっていないといけない。

石戸

パソコン室などの特別室に行くのではなくて、思いついたときにいつも使える。かといって必ず使わないといけないわけではないですよね。

阿部

そうです。ある子は使ってもいいし、ある子は使わなくてもいい。それくらいの幅を持たせたい。

石戸

学び方は、それこそ多様であってほしいですよね。今までの学び方がダメなわけではなく、そのスタイルの学び方が合っている子もいる。学び方自体はそれぞれが自分に合ったスタイルを選べればいいわけですし、コンピュータは、まさに個人に合った学びを提供しやすい汎用性がありますからね。

阿部

そうです。だから自由と責任をセットで使ってもらおうということです。だから授業における自由も当然あってしかるべきだと思います。

石戸

「自由」を設計するにあたって、ワークショップで大事にしていることは、「あなたが何をしたいのか」「何を表現したいのか」「あなたが何をつくりたいのか」ということですよね。やらされるのではなくて、こどもたち自身が納得できる道筋をつくる。

阿部

どうも、従来の教育では、学習指導要領から受験のシステムから何から何まで全部ひっくるめて、目的は他者から与えられるということを、こどもたちにずっと刷り込んできたと思うんですよ。私は大学生にも教えているのでそれをひしひしと感じますね。

私たちが小学生に対してワークショップでやっていることと同じことを大学生にも行うのですが、まったく手が動かないですね。まずアイデアが出ない。質問されるのは、どうしたら単位が出るのか、どうやったらよい評価をもらえるのか、それを指示してくれれば、その通りにやります、と言う。

石戸

今までは与えられた設問に対して答えはひとつであるものに向き合い、いかに迅速にそのひとつの答えを見つけ出すかということに評価の力点が置かれている教育であったので、設問自体も自由だといわれると、途端にわからなくなる。でもこれからは、課題解決だけではなく、課題発見も大切で、自ら目的自体を発見し、理解し、形にしていく力が大切ですよね。

阿部

ただ、私たちが言っているのは理想論かもしれない。現に受験も就活もあります。それについて保護者や先生、こどもたちから言われたときにどう答えるかですね。

石戸

そのひとつに、阿部さんとご一緒している品川区立京陽小学校での取り組みがあると思います。ここでは、国語・算数・理科などの教科科目の中で、プログラミングを導入している。ツールとして使う、という実践をした京陽小学校というのは、文部科学省がこれからやろうとしていることを先行してやったパターンと思っています。

阿部

そうですね。現行の枠組みの中で、どこまで可能かを試したケースだと思います。評価の問題にしても、プログラミングだけを取り出して見るのではなく、個々の科目の評価で見ましょう、ということです。ここでの実践内容を評価していただいた結果が有識者会議の意見の取りまとめで、プログラミングを独立教科ではなく、既存の教科に入れるという事につながったのではないかと思っています。

石戸

私もそう思っています。これからいよいよ小学校の授業の中にプログラミングが入っていきますが、これについては阿部さんとしては、ずばりどういう感想を持っていますか?

阿部

昔、必修化は結構反対でした。

石戸

そうですよね、知っています(笑)

阿部

なぜならば、プログラミングは好きな子もいるし嫌いな子もいるからです。特にScratchとかSqueak Etoysとかをやっているこどもたちが、せっかく今まで自由にやれていたのに、その自由がなくなってしまうのではないかと思っていました。

従来の学習の方法でプログラミングを取り入れる弊害の話はさっきしましたが、何もしないとそうなることはこどもたち自身が一番よく分かっています。ですが、全国を回ると、そもそも、好き嫌い以前に、プログラミングの機会がまったくないこどもたちがいることが分かった。

石戸

そうですよね。

阿部

そうだとすれば、公教育でそれをカバーしない限り、もしかしたらその子は一生プログラミングに触れないかもしれないですよね。さらには経済の格差、地域の格差によって、得られる教育の内容や質に差があることは非常に大きな問題だと思います。そのため、やはり義務化しないといかんかな、と考えているということです。

石戸

CANVASはプログラミングだけをやってきたわけではなくて、協働的で創造的な学びを産官学連携で提供するということに取り組んできました。すべてのこども達に創造的な学びの場を!と考えていたので、もちろん学校で展開したかったのですが、設立当時は難しかった。アーティストを育てたいのですかとか、プログラマーを育てたいのですか、と誤解されることも多かったです。
そうではなく、すべてのこどもたちに学習の機会を提供したいという思いで始めたので、本当であれば、学校でもやりたかったんです。ただ、なかなか学校ではできなかったので、まずは学校外の活動から始めました。その結果として、今は、地域と学校をつなげていく役割を果たせるといいなと思っています。これまで14年間活動をしてきて、たとえばワークショップコレクションも2日で10万人来てくれるようになりました。ただ、全国に1000万人の小中学生がいるのに、がんばっても所詮10万人。

やはり機会はすべてのこどもたちに平等であるべきではないかと考えると、学校の中で学びの機会を用意できるというのは私としては悲願ですね。

阿部

そうですね。結局スケールの問題にいきつきます。いくら回っても全然広まらない。10年以上もやってきたのに広まった感がありません。

石戸

保護者のみなさんからも「学校でもやってください」といわれるのですが、学校外で行っていても全然届かない。所得格差が教育格差に広がって、そのスパイラルから抜け出せなくなりそうですよね。だからこそ学校で!

阿部

引き続き、メディアの力も借りて、プログラミングの大衆化を進めたいと思っています。今まで届かなかったところに届けたい。端末に関しても、本当にこどもたちが自由に使える端末、本当の意味での「dynabook」にもう一回チャレンジしたいと思っています。